(3)待望思想は、「真の父母待望」となるべきであった
ところで、キリスト教の「待望思想」はどこへ進むべきだったのでしょうか? 次のみを通して確認してみましょう。
「人類歴史は、真の父母を復帰する歴史であるということができます。真の父母を復帰しなければ・・・・・真の家庭と真の氏族と真の民族、国家、世界、天宙はあり得ません。神様は、今までこの基準を立てるため、六千年という長い歳月、苦労してこられました」(天一国経典「天聖経』 152ページ)
また、真のお父様は「救援摂理史の原理観」のみ言で、再臨のメシヤの使命は真の父母の理想を完成することであり、イエス様が果たせなかった新婦を探し出して真の父母になることであると語られました。
1971年のみ言では、「イエス・キリストは、『私は神様の独り子である。神様は私の父である」と言いました。••••••神様の独り子はいましたが、独り娘がいましたか? 独り娘に出会えなかったので、神様の初愛をすべて受けることのできる独り娘に出会うために、イエス様は再臨するのです。 再臨主は、来て何をするのでしょうか? 「小羊の婚宴』、すな婚姻をしなければならないのです」(マルスム選集4310) と語っていらっしゃいます。
天が準備した再臨のメシヤと独り娘誕生のための韓国キリスト教基盤において、聖霊運動が吉善宙 (1869~1935)のペンテコステ運動によって成され、平壌は「東洋のエルサレム」と言われました。聖霊体験、悔い改めと救いが強調されたのです。それまで儒教文化の強かった朝鮮の霊性に対し、宣教師ハーディは悔い改めについて教え、その悔い改めによって“聖霊運動の復興”が成される契機となったのです。
本来、キリスト教の「待望信仰」は、復帰摂理から見るとき、「真の父母待望」でなければなりません。再臨のメシヤと共に初臨の娘を迎えるべきなのです。これが、新約時代の目的であるヨハネの黙示録第1章の「小羊の宴」となります。 そうしてこそ「真の父母」が顕現するのです。再臨のメシヤ待望は“初臨の独り娘待望の思想とつながるべきでした。韓国キリスト教の聖霊運動は、そのための準備だったのです。しかし、そのようにはなりませんでした。
聖霊は、本来「女性神」(「原理講論」 265ページ、他) ですが、キリスト教では男性中心の聖霊運動だったため、“独り娘待望の信仰形成は失敗しました。イエス様は聖霊(助け)を送る(ヨハネ1・1)と語りましたが、この助け主はギリシャ語聖書で「ホ・パラクレートス」で、「ホ」という男性冠詞が付いています。キリスト教の言う「聖霊」は男性なのです。キリスト教が神の概念 (三位一体)を説明するときは、父と子と聖霊が「同質」であり、聖霊の概念に女性的要素はありません。 聖霊は、神やイエス様と同じ男性を指し、女性とは考えないのです。
ヨハネの黙示録に「小羊の婚宴」が成されると預言されていますが、キリスト教神学には、その「小羊の婚宴」にペア(男女)の概念がないのです。黙示録の「花嫁」、「彼女」の概念を教会であると規定したからです。 キリスト教神学は”初臨の独り娘。に関する神学と信仰が欠如した状態で韓国に伝わってきました。
キリスト教信仰の限界は、再臨のメシヤの聖婚(結婚)について考えることすらできず、ただ再臨主だけを待望する信仰となったことです。独り娘〟に関する信仰や神学は形成されませんでした。天のみ旨を成就するには勝利した人間始祖”を迎えるための「真の父母待望」でなければならないのに、キリスト教信仰には“独り娘待望の思想と信仰が欠落しており、その痕跡を見いだすことさえ難しいのです。

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