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子女を愛する

父母は、子女のためにいるものです。もし「子女は父母のためにいるものだ」と言うなら、その人は父母ではありません。

今後、統一教会の原理を中心として倫理観が形成されるようになります。 父母は、あるべきですか。 子女を生んだ父母は、子女のために苦労しなければなりません。これが倫理の第一条です。

なぜそのようにすべきなのか、説明は必要ありません。 うれしいからだというのです。
うれしいからその子女のために生きようとする父母の立場は、幸福な立場です。(天一国経典「天聖経」第十一篇第四章第二節 7 )

父母が子女を愛するとき、「父母はこうでなければならない」というある固着した形式をもち、自分を主張する場において子女を愛するのではありません。 自分を主張せずに自分を否定するのです。すなわち、自分がない立場から子女を愛するのです。

言い換えれば、父母は、父母の権限をもって、いつも堂々とした立場で子女を愛するのではなく、父母の権限を忘れた立場、それ以上の立場で子女を愛するのです。そのような愛をもって子女の前に臨むのが父母なのです。(天一国経典『天聖経』第三篇 第二章第二節10)

父親は、子女と向き合うとき、友達の中の友達にならなければなりません。そうすれば、自分の友達と遊んでいても、父親が現れれば、友達を捨てて父親に向かって走っていくのです。そして、先生の中の先生にならなければなりません。

「私のお父さんは大統領よりもすごい。 一番だ。 神様の次にすごいのが私のお父さんだ」と言わなければなりません。 「友達と替えることができないお父さんだ。 どんな先生とも替えることができないお父さんだ」と言わなければならないというのです。(天一国経典『天聖経」第十一篇第四章 第二節9)

母親は、自分の体を投入して忘れてしまいます。自分の血と肉を分けてあげながら、覚えておく母親はいません。子女にお乳を与えながら、「きょうは何グラムを子女に供給した」とノートに記録したりはしません。 投入して忘れ、投入して忘れてしまうというのです。

母親が子女を育てながら立っている所が、 神様が天地を創造しながら投入して忘れ、投入して忘れた、その立場と同じなのです。 (天一国経典『天聖経』第三篇第一章第一節2)

子女とは何でしょうか。 神様がどれほど人間を愛したかを教育することができ、それを教えてくれ、体恤させるためのものが子女です。その子女を通して、神様がアダムとエバを造っておいて、どれほど喜んだかを知るようになります。

皆さんが子女を愛するのは、神様が人類始祖を造っておいて喜んだのを体験することです。神様と同じ立場で、子女を愛することのできる人にならなければならないので、息子、娘を生まなければならないのです。(天一国経典「天聖経』第五篇 第三章 第三節 1 )

父母が子女を愛するのに、誰かに教えてもらって愛しますか。皆さんは、赤ちゃんを生んで愛する時、その愛する方法を習いましたか。 どこに愛を教える学校がありますか。 何もありませんが、誰でもその基準は満点です。不足だと感じれば感じるほど、さらに完全だというのです。

完全なものは、手を出す必要もなく、習う必要もありません。加減が必要ないものが完全なものなので、完全なものは変わらないものであり、変わらないものは永遠に続くというのです。(天一国経典「天聖経』第三篇 第二章 第三節44)

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