それができるときは、そのみ旨が成就されます。このような観点から、皆さんは原理を中心として正道を選別して歩んでいかなければならないのです。 天一国経典「天聖経」第五篇第四章 第六節35)
〇家庭生活に実らせる
家庭は、一つの代表的な人間が暮らしているモデルです。いかなる人も家庭の基盤を通して人生の道を整え、そこで生み、それを中心として東西南北を往来し、上下を往来しながら生き、そして逝くのです。このように見るとき、家庭の幸福を得ることができなかった人は、国の幸福を求めることができません。
いくら国を求めたとしても、国のどこに住みますか。自分が行くべき所がなければ不幸なのです。家庭に行ってこそ、父母がいて、家庭に行ってこそ夫や妻がいて、そして家庭に行ってこそ子女がいるのです。(天一国経典『天聖経』第五篇第一章 第四節 9 )
私たちは、個人中心ではなく、家庭中心です。だからと言って、家庭だけを中心としてすべてのものを清算するのではなく、すべて連結しなければなりません。ですから、昔、独りで修道の生活をしていたときの努力ではいけません。「昔、努力したときの何倍以上も努力しよう」という決意と覚悟を加えなければなりません。
悪に対して挑戦していく生活は、ややもすると疲れて後退しやすいのです。 家庭をもったときは、独りのときの何倍も努力しなければなりません。 家庭は中心をつかむ場です。私たちは、現実を避けることはできません。 前後、左右、上下の関係を家庭で築かなければならないのです。
ですから、過去の信仰形態ではいけません。 過去の一方的な信仰態度でも駄目なのです。祝福は、死ぬか生きるかの決定点です。(天一国経典「天聖経』第十一篇第四章第一節11)
私たちは、心情を離れては生きることができません。 自分が大統領だとしても、あるいは世界的なあらゆる権威を備えているとしても、心情的な喜びを表示する所がなければ生きることができません。自分が率いる人々や閣僚たち、あるいは追従する人々からは、心情的な満足を感じることができません。
それは家庭で感じなければなりません。家庭に帰ってきて、夫婦が互いを通して喜びを感じ、また子女を通して喜びを感じることができなければなりません。そうして、その喜びを他の人々に誇ることができなければなりません。
神様も同じです。 この世界をすべて復帰したとしても、家庭がない神様は喜ぶことができません。結局、家庭がなければならないというのです。(天一国経典『天聖経』第五篇 第一章第四節 1 )
ある人は、「会社に行っても愛を探すことができる」というかもしれませんが、違います。会社は物質を通して利益を得ようと連結された所です。また、政治の分野は、人同士が自分の権益を得る所です。 そして、宗教も、神様を見いだすありとあらゆる方法があり、それぞれの宗教で異なる方法があります。 それで神様を見いだすことはできますが、愛は見いだせません。真の愛は、家庭で探さなければならないのです。
いくら会社に出ていってお金をたくさん稼いでうまくいったとしても、愛する家庭のない人は不幸な人です。 また、いくら政治の分野に進出して大統領になったり、国会議員になったりしたとしても、帰ってきて愛することのできる愛の家庭がなくなるときには、不幸な人です。
有名な牧師になり、立派な霊的指導者になって教会の信者から愛を受けるといっても、その愛だけでは駄目です。その愛よりも深く、さらに中心的な愛の場を求めようとすれば、それは家庭しかありません。(天一国経典『天聖経』第五篇第一章 第四節 10)
統一教会では、「神様が人間の家庭の中で、人と一緒に喜んで暮らすことを願われる」と言います。私たちが愛を授け受けするのを学ぶ所も、調和の喜びを創出し、育成し、体値する所も正に家庭なのですが、これが信仰の核心です。
家庭的な愛の養育なしには、幼児期と青年期を通して、いかなる人も配偶者や子女を愛する能力を啓発できないのです。 天一国経典『天聖経』第五篇第一章 第三節 9 )家庭における日常生活は、正分合作用を具現します。すなわち、朝、お互いの仕事のために別れるときも喜びで別れ、夕方再び会うときも喜びで会わなければなりません。
また、家庭に帰ってきては、その日にあったことを妻と子女たちに話し、相談して、誤ったことは直すようにしなければなりません。家庭全体を愛で結びつけて、笑顔で結びつけなければならないのです。
子女たちが、「うちのお父さんは素晴らしい! うちのお母さんは素晴らしい! お父
さんとお母さんが互いに愛し合うのを見ると、本当に素晴らしい!」と言って、誇ることのできる家庭が、子女たちの安息の住まいです。ほかにはどこにも行きたくないと思うほど、永遠の喜びの根拠地となり、自慢の根拠地となる夫婦にならなければなりません。(天一国経典「天聖経』第五篇 第一章第一節8)
私たちが遠く離れた家族を慕うのは、そこに、「ために生きる愛」があるからです。 父母の愛、兄弟姉妹の愛、妻子と隣人、親戚の愛が、一つ一つ宿っている所です。 このすべての関係と縁が、「ために生きる愛」 によって結ばれていて、そのすべてを抱きたいと思う、そのような温かい所です。そこに、解放された自らとして堂々と帰り、胸いっぱいに自然を抱き、家族や親戚を愛しながら歓喜の歌を歌うことが、家族のもとを離れた旅人の郷愁の思いであり、希望でしょう。
故郷を追われ、本郷との心情の根を失ってしまい、家族に会いたいと思っても帰ることができず、永遠の孤独の敗亡者として独り流浪しながら生き、地獄に行くしかなかった身の上が、正に堕落の末裔である人類だったというのです。
しかし、人類は今、後天開闢時代を迎え、このような足かせの沼から解放され、夢にも忘れることのなかった故郷を訪れ、家族に出会える道が開かれました。人類にとって、これほど大きな祝福の日が、またとあるでしょうか。アダムとエバが堕落によって失ってしまった本然の家庭を、私たちが再び探して立て得る天運の時が到来したのです。(天一国経典 『天聖経」第十三篇第一章第二節12)

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