9/5(木)37p2行~40p3行

与えてあげたといって何かを期待する生き方ではありません。 与えても、もっと多く与えることができずに心を痛める生き方です。 ために生きるにおいても、頭を下げて与える生き方です。

それが父母の愛であり、主人の愛です。 人類の真の父母である神様がそうなのです。(天一国経典『天聖経』第四篇 第三章 第三節 1 )

真の愛とは何でしょうか。 父母の愛、夫婦の愛、 子女の愛です。 愛は、互いに犠牲となる伝統が備わっていなければ、長く続くことなく壊れてしまうものです。

父母は子女のために犠牲となるので、父母が子女を愛する関係は壊れません。 そして、真の父母の愛を受けて育った息子、娘であるならば、絶対に自分の父母に親不孝をすることはできません。

また、夫は妻に、妻は夫に対して「あなたは私のために生きた」という立場で、お互いに一層ために生き、一層犠牲となる立場が広がれば、その家庭には恵みが訪れるのです。そのような家庭が、神様の訪ねてこられる福地です。(天一国経典「天聖経』第五篇 第四章 第六節 383)

絶対的神様の真の愛の本質は、受けようという愛ではなく、人のために、全体のために先に与え、ために生きようとする愛です。 与えても、与えたということすら記憶せず、絶えず与える愛です。喜んで与える愛です。

母親が赤ちゃんを胸に抱いてお乳を飲ませる、そこに喜びと愛の心情があり、子女が父母に孝行して喜びを感じる、そのような犠牲的な愛です。

神様の人類創造は、何の見返りも期待せず、条件も付けずに与える、絶対、唯一、不変、永遠の愛による創造であったというのです。(天一国経典『天聖経』第十三篇 第一章 第三節17)

真の愛の共鳴圏に入れば、天地がはっきりと見えるのです。釈迦牟尼が、「天上天下唯我独尊」と言ったのも、その共鳴圏の核心に入ってみたところ、天下がすべて「私」の手の内に入ってきていて、神様が私の中にいらっしゃって、天理が私に連結されているので、そのような言葉を語ることができたのです。

真の愛の共鳴圏に入っていけば、信仰は必要ありません。神様と一緒に暮らすので、救世主が必要ないのです。解放です。 すべて終わるのです。(天一国経典「天聖経』 第十二篇 第三章第二節 8 )

ために生きる

統一教会の中心思想は、「ために生きる」というものです。そのようにすると、「私」が中心になるのです。互いにために生きる過程がなければ、家庭の平和がなく、家庭の平和を形成できなければ、民族平和、国家平和、世界平和はありません。

ですから、全世界の愛の圏を中心として生きなさいというのです。これは、人類平和の絶対的な要因になるのです。(天一国経典「天聖経』第十篇 第二章 第四節1)

恒久的な平和世界を建設するために、私たち各自が単純でありながら基礎的な原則を適用しなければなりません。この原則は、神様の本質、神様の本性の核心、すなわち「ために生きる生活」の原則です。

このような原則を日常生活や家庭、社会、職場、礼拝、政府、事業に適用するとき、社会や国家、世界を変化させる過程が始まるのです。(真のお母様、二〇一五・三・一)

ために存在するというこの原則に立脚して、私たちの一生について見るとき、最も価値ある人生観は、自分が全人類のためにあり、全世界のためにあり、国家のためにあり、社会のためにあり、家庭のためにあり、夫のためにあり、妻のためにあり、子女のためにあるという人生観なのです。(天一国経典「平和経』第一篇3)

コメント