易しい立場で易しいことをしながら孝の道理を果たそうという人よりは、限りなく難しい立場で孝の道理を全うしようという責任者、そのような立場に立った人、そのような立
場に立った息子、娘こそが、 孝子の行く道に入ってきた人です。 それは間違いありません。
このように見るとき、 神様は世界的な問題を心配していらっしゃるので、 世界的な問題に責任をもとうという人がいれば、その人は、世界のいかなる民族やいかなる人よりも、
神様の前で認められる近い立場に立っているということは言うまでもありません。
それゆえに、孝子の立場とは、「父母が受けた悲惨なことに対して責任をもとうとする代表的立場だ」と結論づけることができます。良いことがあっても、良いことは除き、常
に悪いことに責任をもたなければならない道が孝子の行くべき道です。 (一九七二・九・一〇)
周囲に散在する数多くの人々が父母に侍って孝行している生活環境において、父母の前に孝行するということは難しくありません。
しかし、多くの人が、みな父母を排斥し、自らの行かなければならない道を避けようとする時に、たった一つしかない自分の生命を捧げることがあったとしても、行かなければならないその道において父母のために生きようとする立場に立つならば、それこそ、環境を超越した立場で孝行の道理を果たした、ということになるのです。
それゆえに、そのような人は孝子として立てざるを得ないという事実を、私たちはよく知っています。 (一九七一・三・四)
世界のための神様のみ旨が残らなければならず、世界を愛する神様の愛が残らなければなりません。したがって、皆さんは、死んでもそれらを残してあげなければなりません。それを残すために自らの生涯を犠牲にする人は、孝子になり、忠臣になるということを、皆さんは知らなければなりません。
一日孝子や一日忠臣は必要ありません。 一日孝子には、どれほど悪い強盗でもなることができるのであり、一日忠臣も、やはり誰もがなることができます。その場で悔い改めればなることができるのです。 神様は、生まれる時から孝子、忠臣として生まれ、孝子、忠臣として生きたのち、 孝子、忠臣として死ぬことができる人を願っていらっしゃるのです。
先生と皆さんを比較すれば、先生は、神様の前に皆さんよりも孝子です。なぜならば、今まで、生涯を捧げてこのような仕事をしてきたからです。
しかし、私が孝子の道理を果たしたとは夢にも思っていません。 歩めば歩むほど足りなさを感じます。孝子の道理、 忠臣の道理を果たしたと思う人は、 そこで孝子や忠臣としては終わりです。
「私は孝子なのに、私は忠臣なのに、なぜ分かってくれないのか」と言って抵抗する人は、その峠から後退する人です。 歩めば歩むほど孝の道理が残っていて、歩めば歩むほど忠の道理が残っているということを発見し、その孝を果たすことを自らの生活哲学として生きる人であってこそ、天の孝子になり、忠臣になることができるということを、皆さんは知らなければなりません。 (一九七〇一一・一)
神様の目から涙が流れ、胸には赤い血が流れ、血が流れるべき血管が詰まり、胸が詰まっ瀕死の状態になった神様を、 孝子、忠臣、 聖人 聖子の道理でもって解怨成就してあげなければなりません。
その神様が私をかき抱いて、「御苦労だった」と涙を流されても、涙を流さずに、「私は何の関係もありません」と言って神様の涙を止め、背を向けながら涙を流そうという、天理を抱いてきた人が真の父母です。(天一国経典『天聖経』第一篇 第四章 第三節 20)
人類の希望は、真の父母に出会うことです。歴史の結実は、真の父母に出会うことであり、時代の中心は、真の父母に出会うことであり、未来の出発の基地は、真の父母に出会うことです。そこに接ぎ木された皆さんは、枝になるのです。

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