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父母が愛する子供を育てるに当たっては多くの困難があります。しかしその困難を耐えて明日の希望を心に固く抱きながら子供を育てるのです。その父母が国を愛するがゆえにその子を国よりもっと貴く思うのならそれは罪ではありません。未来の国を守らせようという願いを持って国以上にその子を愛するのなら罪にはならないのです。

言い換えれば自分が国に対して忠臣になれなかったので自分の子供を代わりに未来の忠臣として育てるために現在の国よりもその息子をもっと愛するというのは罪ではないということです。

しかし未来の忠臣をつくろうとするのではなく自分に孝行することを願ってその息子を国よりもっと愛するようになればそれは罪になります。すべての公式がこうなっているのです。(一九七〇・八・二)

統一教会の食口たちは子供を育てる際にもその子を高めてあげることができなければなりません。父母だからといって「こいつはああだこうだ」とは言えないようになっています。そのようにはなっていません。

皆さんに希望があるというのですがその希望は彼らを通して継承されるのです。子供を通してだとか夫婦を通してだとか父母を通してだとかある道を通して連結されるというのです。

人間に残っている希望が天の立ててくれる希望だとするならばそれは天倫の道を通してのみ連結されるのです。(一九五九・一一・二二)

私たちが今まで父母の心情を抱き僕の体で涙と血と汗を流したのは何のためだったのでしょうか。世界のためです。(しかし)自分の息子娘のために生きることのできない人が世界のために生きるというのはうそです。

世界のために生きることができてこそサタン世界から選んできた代表者になることができます。ですからそれを実感する立場において天国をつくる一つの手本となり標本となり得る基準を決定する仕事を私がしているのです。

それではそのような基準とは何でしょうか。家庭だというのです。また国をつくることのできる標本とは何でしょうか。それもやはり家庭だというのです。それゆえ愛を中心として子供のために犠牲となりあらゆる代価を払いながらも報酬を願わない立場に立つことができなければなりません。むしろ与え続けることができないことを恨に思う心を持たなければなりません。

そのような心を持ったとき子供たちがそれを手本として父母がそのようにしてくれたことに感謝し自分もそのようにしなければならないという立場に立って父母の困難な道に自分が代わりに責任を持とうとするのです。

皆さんはそのようにできる環境をつくってあげなければなりません。そうしなければエデンの園で堕落したその恨の基準を飛び越えることができないのです。(一九七〇・二・二五)

子女が十代の時に「原理」のみ言を聴いたなら聴いて知ったというだけで放っておかないで家庭でお父さんとお母さんが息子娘を友達のように思って討論もしなさいというのです。

一週間なら一週間ひと月ならひと月に一回ずつ信仰生活におけるある問題を中心として息子と娘は父母に父母は息子と娘に質問し合い答えながら討論をしなさいというのです。

そうすれば家庭で十代の青少年の時期に聴いたその言葉がそれで終わるのではなく二十代に入ってからその「原理」のみ言を生活環境に適用できるというのです。そうなるように皆さんが面倒を見て足場を整えてあげなければなりません。

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