9/2(月)28p1行~31p3行

第二章 生活信仰

〇侍義時代

これからは、待って暮らす侍義時代です。 侍ることによって救いを得るのです。今までは蕩減によって救いを受けました。天に待って暮らせる侍義時代に入らなければなりません。神の国がなければならないのです。イエス様は、国がなかったために追い出されたのです。皆さんも同じです。 先生のみ言をつかんで、歩んでいかなければなりません。 み言を否定するサタンの権勢はありません。 神様を中心として、そのみ言と霊界と歩調を合わせ、実体的家庭ができていれば、その家庭を中心として、いくらでも拡張できるのです。

家庭がないのに、国がどのようにしてできますか。私たちの家庭から私たちの氏族が生じ、私たちの氏族を中心として私たちの国が生じ、世界が自動的にできるのです。その版図が、祝福を受けた家庭を通して形成されるのです。(天一国経典「天聖経』第十一篇第一章第一節2)

神様が、信じ、行い、生活するような、侍る環境にいれば、サタンは干渉できません。いつもサタン圏内にいるとしても、そのような環境で神様と共にいられる義なる基準が生じれば、サタンはそこから後退するのです。

そうかと言って、行いの旧約時代が過ぎ去り、信仰の新約時代が過ぎ去り、侍る成約時代だけがあるのではありません。 旧約時代の行いも必要であり、新約時代の信仰も必要であり、成約時代の侍る生活も必要なのです。 成約時代にも信仰が必要であり、行いが必要であり、すべて必要です。

それは蘇生の上に長成があり、長成の上に完成があるのと同じように、それは切っても切れないのです。今、特に侍義を語るのは、生活化天国時代だからです。(天一国経典『天聖経』第十一篇第一章第一節12)

侍義時代とは何でしょうか。 神様に待って暮らす時代です。聖書における第一の戒めも、「神様を愛しなさい」というみ言ではないでしょうか。

後天時代には、神様御自身が真の父母の姿で万民の前に顕現されます。したがって、真の父母に侍る統一教会の立場は、世の中のいかなる力や勢力とも比較できない天の権勢として現れるのです。(天一国経典『天聖経』第十二篇 第三章 第三節 153)

今後の歴史は、どのようになるのでしょうか。新郎となる主が来て、 新婦に出会う新郎新婦の宗教圏時代が来るようになります。 それが真の父母宗教です。それはもはや従来の宗教ではありません。 宗教というものは、その時になくなるのです。 真の父母に侍ることによって救援を受けるのです。 統一教会でいう侍義の救援時代が来るのです。

したがって、真の父母の語る言葉は、自分が語るすべての言葉の根本にならなければならず、真の父母の生理的なすべての感情は、自分のすべての生理的な感情にならなければならず、真の父母の生活は、自分の家庭の伝統的な文化基盤にならなければなりません。(天一国経典「天聖経』 第二篇 第二章 第四節 122)

〇天の父母様と真の父母様に侍る

私たちは今まで、観念的に神様を呼び求めてきました。宗教的な主体としてのみ神様を呼び求めてきたのです。神様は生命の主体であると同時に生活の主体であり、生活の主体であると同時に理念の主体です。

しかし、いくらその理念の主体が広くて大きいとしても、実質的にそれは生活感情で分析され、体験されなければなりません。もし生活で体験されるその理念の価値を、存在しているどのようなものとも取り替えることができない、と誇り得る立場に立った人がいるとすれば、その人は、神様が探し求めている人に間違いありません。(天一国経典「天聖経」第一篇第一章第二節3)

コメント